特別インタビュー
2008-11-07 Fri
河出智希 BOUNCEBACK
その人でしか出せない魅力というものを真剣に磨き上げて!
作曲の河出智希・作詞の竹内栄美子の2人からなるBOUNCEBACK(バウンスバック)。河出は吹奏楽の作曲家として出版経験を持つ。2003年には、浜崎あゆみの「No way to say」(作曲)で日本レコード大賞を、島谷ひとみの「Perseus-ペルセウス-」(作詞)で金賞を受賞。そのほか、数多くのヒット曲を産み出している。
インタビュー
-プロを目指すきっかけってどういうところから?
今音楽志してる方みんながそうだと思うんですけど、自分ができることがお客さんに喜んでもらえるかどうか試したいというところからスタートしてると感じで、僕もそういうところから始まりましたね。
--いつごろから作曲家を目指していたんですか?
BOUNCEBACK結成する前に僕はクラシックの作曲家をやってて、18歳くらいから作曲家になりたいと漠然とは思ってましたけど、あてもなかったのでしばらくさまよってたんです。竹内と出会って、歌謡曲作ろうよって始まったんです。だから、このエンタテイメントな世界を志したのは30歳でBOUNCEBACK結成してからですね。
--クラシックから歌謡曲へというので苦労もされたのでは?
もちろん苦労はしましたけど、作曲という意味においてジャズもクラシックもCM音楽も特にわけては考えてなかったんです。やってみたらもちろん難しかったんですけど、目指す分には意外と楽にいけたかと思います。
--作曲家を目指すきっかけみたいなものはありますか?
僕が小学校5年生と6年生の間に「不二家歌謡ベストテン」というラジオ番組があって、その時は日本の歌謡界が非常に濃い時期で、田舎に住んでいながらオンタイムで聴けたので、それが僕の音楽の原体験になってます。ちょうどニューミュージックが出てきた頃で、小林幸子さんがトップテンに入ってきたり、ベストテンから落ちた「北の宿から」がまた戻ってきたりとか、今とは違った濃ゆいものが楽しめた時代だったと思います。
--プロになるいきさつはどんな感じでしたか?
アマチュアの時にavexにデモテープを送ったら、すぐ来いと呼ばれて、来年、韓国からくるBoAっていう子がデビューするんだけど、お前もいっぺん書いてみろって言われて、がんばって書いたのが「Amazing Kiss」です。
--それが採用された時のお気持ちは?
ありきたりですけど、志してから経済的にも苦しい時期が何年か続いてたので、救われたというかそんな気持ちでしたね。ここからは気を抜かないで今までの分も精一杯やってこうって思いました。
--アーティストとしての活動は考えていなかったんですか? BOUNCEBACKは結成から作家でいくと決めてらしたんですか?
結成時が30歳と25歳だったんで、ここから表にでることはないなと(笑)。作家というのは、とにかく勉強と集中と考え込みで、これを怠らなければ我々でも何とかなるっていう想いでやってます。実際にデビュー前にやってたのが1日1曲必ず譜面に残すっていうことと、有線をチェックしてて、その頃トップ20に入ってる曲は全部今でも持ってます。それで売れるって何だろうって、徹底的に追及しましたね。今の女の子のキーはこうなんだとか、この子はこの音が出るから売れてるんだとか、最近のAメロとBメロはこういう組み合わせのキーでできてるんだとか片っ端から調べましたね。こうして徹底的に分析して、理論的に考えていく訳なんです。ここからがプロとして問われる事なんですが、ありきたりじゃないものを提供しなくてはいけないくて。分析したものにプロとしての特別なものをプラスアルファで考えだすというところが一番苦労するところです。結局、そのプラスアルファが勝負になってきますね。
--この仕事をしててやっててよかったと思える時は?
ある人に、僕の曲を高校生の時に聴いてましたっていうのを言われたことがあってそれはうれしかったですね(笑)。あとは、他の作家さんのヒット曲に混じって自分の曲が聴こえてくる時に、“ああ、自分もやっぱり色んな作家さんと同じ時代に同じ空気を吸いながら、共にがんばっていられるんだなぁ”って実感できる時ですかね。
--これから作家志望する人たちにアドバイスするとしたら?
勉強せよ!と言いたいですけど、それをするのは当たり前なんで、その人その人の本当の魅力、その人でしか出せない魅力というものを真剣に磨き上げて見つけて、それを高く高く育て上げていってほしいと思います。それを見つけるのは作り続けていって、人から批評されまくって、けなされまくって、それが運良く発売されても他のヒット曲と比べられて、そこで自分の値打ちがどれくらいかわかることで、自分にしか出来ないことを100%できるかどうかで変わってくると思います。
--作品づくりのために何かやっている事はありますか?
いつも機材で音を出してはいるので、休みはないですね。1日に1度、鼻歌を歌うようにしてます。例えば、二日酔いでつらい日とか家族と喧嘩してたりしてるときでも必ず1日に1度は鼻歌は欠かさないようにしてます。
--今後、やってみたいこととか方向性などはありますか?
僕個人としては明確で、ずっと作曲家でいたい、ただその一点です。それは小学校5、6年生の頃からみた、ヒットする歌謡界の時代による変貌ぶりを見てきてるので、これは僕の命の続いている間はどう変わっていくんだろうってことに興味がありますね。あと、楽器としての人間の声ってどんどん変わっていってるんですよ、いわゆる声という楽器の性能が全然別ものになってきてるんで、それに曲を付けるというのがプロの仕事で。僕は絶えずその時代にある楽器、歌手の声を愛することができるという自信はありますし、それぞれの声に曲を書いていきたいです。
今音楽志してる方みんながそうだと思うんですけど、自分ができることがお客さんに喜んでもらえるかどうか試したいというところからスタートしてると感じで、僕もそういうところから始まりましたね。
--いつごろから作曲家を目指していたんですか?
BOUNCEBACK結成する前に僕はクラシックの作曲家をやってて、18歳くらいから作曲家になりたいと漠然とは思ってましたけど、あてもなかったのでしばらくさまよってたんです。竹内と出会って、歌謡曲作ろうよって始まったんです。だから、このエンタテイメントな世界を志したのは30歳でBOUNCEBACK結成してからですね。
--クラシックから歌謡曲へというので苦労もされたのでは?
もちろん苦労はしましたけど、作曲という意味においてジャズもクラシックもCM音楽も特にわけては考えてなかったんです。やってみたらもちろん難しかったんですけど、目指す分には意外と楽にいけたかと思います。
--作曲家を目指すきっかけみたいなものはありますか?
僕が小学校5年生と6年生の間に「不二家歌謡ベストテン」というラジオ番組があって、その時は日本の歌謡界が非常に濃い時期で、田舎に住んでいながらオンタイムで聴けたので、それが僕の音楽の原体験になってます。ちょうどニューミュージックが出てきた頃で、小林幸子さんがトップテンに入ってきたり、ベストテンから落ちた「北の宿から」がまた戻ってきたりとか、今とは違った濃ゆいものが楽しめた時代だったと思います。
--プロになるいきさつはどんな感じでしたか?
アマチュアの時にavexにデモテープを送ったら、すぐ来いと呼ばれて、来年、韓国からくるBoAっていう子がデビューするんだけど、お前もいっぺん書いてみろって言われて、がんばって書いたのが「Amazing Kiss」です。
--それが採用された時のお気持ちは?
ありきたりですけど、志してから経済的にも苦しい時期が何年か続いてたので、救われたというかそんな気持ちでしたね。ここからは気を抜かないで今までの分も精一杯やってこうって思いました。
--アーティストとしての活動は考えていなかったんですか? BOUNCEBACKは結成から作家でいくと決めてらしたんですか?
結成時が30歳と25歳だったんで、ここから表にでることはないなと(笑)。作家というのは、とにかく勉強と集中と考え込みで、これを怠らなければ我々でも何とかなるっていう想いでやってます。実際にデビュー前にやってたのが1日1曲必ず譜面に残すっていうことと、有線をチェックしてて、その頃トップ20に入ってる曲は全部今でも持ってます。それで売れるって何だろうって、徹底的に追及しましたね。今の女の子のキーはこうなんだとか、この子はこの音が出るから売れてるんだとか、最近のAメロとBメロはこういう組み合わせのキーでできてるんだとか片っ端から調べましたね。こうして徹底的に分析して、理論的に考えていく訳なんです。ここからがプロとして問われる事なんですが、ありきたりじゃないものを提供しなくてはいけないくて。分析したものにプロとしての特別なものをプラスアルファで考えだすというところが一番苦労するところです。結局、そのプラスアルファが勝負になってきますね。
--この仕事をしててやっててよかったと思える時は?
ある人に、僕の曲を高校生の時に聴いてましたっていうのを言われたことがあってそれはうれしかったですね(笑)。あとは、他の作家さんのヒット曲に混じって自分の曲が聴こえてくる時に、“ああ、自分もやっぱり色んな作家さんと同じ時代に同じ空気を吸いながら、共にがんばっていられるんだなぁ”って実感できる時ですかね。
--これから作家志望する人たちにアドバイスするとしたら?
勉強せよ!と言いたいですけど、それをするのは当たり前なんで、その人その人の本当の魅力、その人でしか出せない魅力というものを真剣に磨き上げて見つけて、それを高く高く育て上げていってほしいと思います。それを見つけるのは作り続けていって、人から批評されまくって、けなされまくって、それが運良く発売されても他のヒット曲と比べられて、そこで自分の値打ちがどれくらいかわかることで、自分にしか出来ないことを100%できるかどうかで変わってくると思います。
--作品づくりのために何かやっている事はありますか?
いつも機材で音を出してはいるので、休みはないですね。1日に1度、鼻歌を歌うようにしてます。例えば、二日酔いでつらい日とか家族と喧嘩してたりしてるときでも必ず1日に1度は鼻歌は欠かさないようにしてます。
--今後、やってみたいこととか方向性などはありますか?
僕個人としては明確で、ずっと作曲家でいたい、ただその一点です。それは小学校5、6年生の頃からみた、ヒットする歌謡界の時代による変貌ぶりを見てきてるので、これは僕の命の続いている間はどう変わっていくんだろうってことに興味がありますね。あと、楽器としての人間の声ってどんどん変わっていってるんですよ、いわゆる声という楽器の性能が全然別ものになってきてるんで、それに曲を付けるというのがプロの仕事で。僕は絶えずその時代にある楽器、歌手の声を愛することができるという自信はありますし、それぞれの声に曲を書いていきたいです。